カテゴリ:中国建築( 29 )

中国建築を巡る

「中国とは何か?」

事有るごとにこの疑問が沸き起こるが、いまだその答えを見出しえない。
中南海の濃い霧に阻まれ、限られたかつおぼろげな姿しか見えないからだ。

その姿を知ろうとして、霧の中に自ら入り込んだとしても、果たして明確な答えが見つかるだろうか。

ここでは、中国の建築を夏の時代からたどり、データベースとすることを直接の目的とする。
さらには、集められた記憶が、さまざまな年代から重なり合い照射することで、
「中国とは何か?」を知る手がかりとしたい。

消え去った時代の中国の一断面を辿ることが、
霧の中をさまようことより賢明であると信じたい。
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by chinafish | 2005-12-31 23:59 | 中国建築

莫高窟

場所:甘肃省敦煌市
時代:366年
種別:石窟

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敦煌の石窟は<世界に現存する最大規模の仏教芸術の宝庫>と称され、莫高窟、西の千仏洞などから構成されている。
莫高窟は1987年に世界文化遺産に登録された。
長さは南北1618メートルで、いまだ492の泥土の像が現存している。
これは敦煌の石質が比較的粗く、仏像を彫ることができないからである。
そのため工匠達は泥土を使用した。

莫高窟の主要な芸術品は塑像と壁画である。

洞穴の中にある北魏時代の塑像の体格は背が高く大柄である。
額は広く鼻は高くて、眉が渦巻き、上半身をはだけており、インドの仏教芸術の印しを色濃く残している。
隋代の塑像の顔面はふくよかで、鼻は比較的低く、顔の線はやさしく、すでにはっきりと中国的である。
唐代に莫高窟の彫像は最頂期に達し、塑像にはまったく模倣の痕跡がない。
容貌はやさしくて、天王は男子の健康美を表現しており、凛々しく勇猛だ。
菩薩の体つきは美しくて、顔はまろやかでつやがあり、現実の女性の姿とほとんど変らない。

その他、莫高窟の中の壁画は更に絢爛多彩である。
その数は非常に多く、一列に並べれば、長さは故宮の城壁周長の10倍になる。
壁画の描写の内容は仏教の創始者に関する故事や供養及び装飾絵画などで、この上なく精巧で美しい。


敦煌石窟被誉为<世界现存规模最大的佛教艺术宝库>,它由莫高窟,西千佛洞等组成.莫高窟在1987年被联合国列入世界文化遗产名录,它南北长1618米,至今还保留着492个泥塑,这是由于敦煌石质较粗,不能凿成佛像,所以工匠们才用泥.莫高窟的主要艺术成就是塑像和壁画.窟中北魏时期的塑像体格高大,额宽鼻高,眉修发卷,袒露上身,留下了印度佛教艺术的浓重印记;隋代的塑像则面部丰满,鼻梁相对低,脸部线条柔和,已明显中国化了.唐代莫高窟的雕像达到了巅峰,这些塑像完全没有了模仿的痕迹,面容柔和,天王表现了男子的健美,威严勇猛;菩萨则身段秀美,面庞圆润,形象酷似现实中的妇女.另外,莫高窟中的壁画更是绚烂多彩.其数量之多,若接起来,长度是故宫城墙周长的10倍.壁画描绘的内容是佛祖的故事,供养人像及装饰图案,精美绝伦.


莫高窟は、敦煌市の東南25kmに位置する鳴沙山(めいささん)の東の断崖に南北に1600mに渡って掘られた石窟数は492窟で、そのうち仏像・壁画が存在するのは486窟にも及ぶ。仏像は、2,000以上もある。
莫高窟の始まりは366年と、唐時代の有名な歴史学者の李懐譲(りかいじょう)は伝えている。前秦時代の366年に僧の楽尊、つづいて法良禅師が石窟を作ったのが始まりとされ、その後の元代に至るまで1000年に渡って彫り続けられ、大規模な石窟寺院群になった。最盛期には千仏洞と云う名前があるように石窟数は1000を数えたという。その後、明代に敦煌の東400kmにある嘉峪関が閉じられ、以後は長い間、莫高窟は忘れられた存在となる。
この莫高窟が再び注目を浴びるのが、1900年の敦煌文献の発見によってである。
王円ろく(おうえんろく)道士が16窟の壁に塗り込められていた小さな部屋を発見。蔵経洞と名付けられた部屋には、膨大な数の古文書が隠されていたそうだ。これは敦煌文書と呼ばれ、敦煌の全貌が明らかにされていったともいわれている。敦煌の仏教美術(建築、塑像、壁画、文書)は世界に類のない仏教美術であった。 しかしその後も莫高窟自体にはあまり注目が集まらず、その価値が認められ、保護が行き届くようになるのは中華人民共和国成立以後のこととなる。
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by chinafish | 2005-10-13 18:11 | 中国建築

灵隐寺(霊隠寺)

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場所:杭州市
時代:326年
種別:禅寺


霊隠寺は、東晋の時代、326年にインドの僧彗理により創建された。

“云林禅寺”とも呼ばれ、中国禅宗十大古刹の一つで、1600年以上の歴史をほこる。
杭州西湖の西側近く、飛来峰に向かって建立され、古来から名高い江南の名刹であった。

言い伝えでは、東晋の326年、この地を訪れた創始者の慧理が、杭州の美しい景色を見て驚き、「仙人の心霊があの山に隠れている」と言った。
そのため「霊隠」と呼ばれるようになった。

最盛期の10世紀頃、五代呉越国時代には霊穏寺全体で九つの高楼、18の仏閣、72殿堂、1300室を超える部屋があり、僧の数は3000人を数えたという。
その後は度重なる戦火に焼かれ、現存するものは後に再建されたもの。

境内の主な建物は天王殿と大雄宝殿、薬師殿などである。

天王殿には、弥勒菩薩像と四天王像、韋駄天像が安置されている。
韋駄天像は南宋時代に一本の楠木で造られた木製の像。

大雄宝殿は中国の単層重檐式建築では最高の33.6mの高さを誇る。
内部の金色の釈迦如来像は、24本の楠で彫刻され、中国にある座仏として最大クラスの19.6mの像である。
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by chinafish | 2005-06-30 13:40 | 中国建築

譚柘寺



場所:北京市b0102720_13291172.jpg
時代:316年
種別:仏寺

北京市内から約40km離れた門頭溝区に位置する。

北京でよく言われる言葉に
“先有潭柘,后有幽州(先に譚柘寺が有り、後に北京城有り)”
があるが、(北京に宮城が出来る前からあるという意味であろうか?)
今から1700年ほど前の晋代に立てられた北京周辺では最も古い寺院である。

寺の後ろに竜潭があり、山に柘榴の木があることから潭柘寺と名付けられた。

山中に建てられた寺院郡は、東・中・西の三路に分散している。

中路には、牌楼・山門・天王殿・大雄宝殿、毗卢阁等がある。
大雄宝殿は黄色い瓦屋根が二層になっており、両端には青緑色の瑠璃の鬼瓦が飾られる。
鬼瓦は高さ約3m、北京で最も大きいものである。

東側には、庭園式の建築郡である、方丈院、延清閣、流杯亭等がある。

西路には、観音閣等の荘厳な建築が並ぶ。
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by chinafish | 2005-06-26 13:28 | 中国建築

阿育王(アショカ王)寺

場所:浙江省寧波市
時代:282年?
種別:寺院
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阿育王寺は中国禅宗五山のひとつとして有名で282年に創建された。
禅宗の名刹として、中国仏教史にも中日文化交流史にも重要な役割を果たしている。

特に釈迦様の仏舎利が珍蔵されているので、国内外にその名を馳せている。
アショカ王は仏舎利を八万四千に分けたが、その内の19箇を中国に運び舎利塔を建設、そのひとつが阿育王寺の舎利宝塔といわれる。

阿育王寺は、建築、庭園、名勝旧跡でその名を知られている。
お寺の前には玉幾山があり、山の形はお寺に向かって飛んでくる鳳凰に見えるという。
殿、堂、楼、閣が600余有る。
お寺は南に向いているが、南から北へと次第に高くなリ、主な建築は天王殿、大雄宝殿、舎利殿である。
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by chinafish | 2005-06-10 14:46 | 中国建築

龙华寺(龍華寺)

場所:上海市
時代:242年?
種別:寺院



龍華寺は上海で最も大きく最も古い古刹であり、
敷地面積は2万平方米余り,建築面積は5219平方米。

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名前の由来は、弥勒菩薩がその下で悟りを開いたと言われる龍華樹。
弥勒が龍華をもつのはこのためだが、実在の樹木のどれに当たるかはっきりしないため、その形態は様々らしい。

創建の時期には3つの説がある。
1、 三国時代の紀元242年、呉の孫権が、夫に先立たれた母の悲しみを慰めるために建立した。
2、 唐の時代687年
3、 宋の時代。

現在の建物は清時代に再建されたものを、1978年、人民政府の手によって修復されたもの。
建築様式は、宋時代の宋伽藍七堂様式で、仏教禅宗寺廟の基本的外観を備えている。
寺内には、弥勒殿、天王殿、大雄寶殿、三経殿、方丈室、蔵経楼と一直線に整然と並んでおり、その両側には鐘楼と鼓楼がある。
この並び方は龍の姿を表し、大雄宝殿が頭部、鐘楼と鼓楼が耳、東西の門前町の中にある二つの井戸が龍の両目になっている。

龍華寺のシンポルであるのが龍華塔。宋代に再建されたもので、木とレンガでできており、高さ40m、7層8角の構造。
1000年余りの歴史を持ち、今も昔と変わらぬ美しさが保されている。ただし、幾度か火災に遭っているので、現在の塔はそれほど古いもないらしい。
塔の上からは上海市街や黄浦江が一望できるが、残念ながら登ることは禁止されている。
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by chinafish | 2005-06-07 18:02 | 中国建築

顕通寺(けんつうじ)

b0102720_17194940.jpg場所:山西省五台県
時代:後漢、75年
種別:寺院

中国史上第二の寺院と言われる显通寺は、中国仏教4大名山である五台山に位置する。
五台山は中国仏教の聖地。
地形は「釈迦の掌」と比喩される。五本の指は五つの嶺。
それに囲まれた手のひらに寺院が点在する。最高峰は,標高3,000mあり、頂上が平らな台状であるので,この名が生まれた。
唐代は五台山仏教の最盛期で,中国仏教の一大中心地となった。清涼国師澄観は,岑山で『華厳教経疏』をつくり,不空は金閣寺を造営して文殊信仰を広めた。そのため遠くインドや日本の僧が巡礼した。唐代には日本留学僧の円仁らが訪れた。
「顕通寺」は、五台山寺廟の中でも規模最大であり、4万3700平方mの敷地内には、大小400余の建物が南北軸に沿い南向きに建てられている。
漢明帝永平年(58~75年)に、洛陽の「白馬寺」に少し遅れて建造された。
北魏の時代に拡張され、唐及び明の時代にも拡張、修復されている。

主な殿堂として「観音殿」「大文殊殿」「大雄宝殿」「無量殿」「千钵文殊殿」「銅殿」「藏経楼」等が挙げられる。
「無量殿」はレンガ造、「銅殿」は銅で作られている。
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by chinafish | 2005-06-03 17:20 | 中国建築

白馬寺

b0102720_17171190.jpg場所:河南省洛陽市
時代:後漢、68年
種別:寺院

洛陽郊外15㌔の所にある白馬寺は、後漢の明帝時代の68年に創建された、文献で確認できる中国最古の仏教寺院である。
白馬寺と言う寺名の由来については諸説あるが、迦葉摩騰と竺法蘭の二人の僧が、白馬に乗り『四十二章経』という経典を携えて、都の洛陽を訪れたという説話に因んだとも言われる。
山門の両側には、2頭の白馬の石彫があり、境内の東西に、高僧(竺法蘭と攝摩騰)の2人の墓がある。
現在の白馬寺は明の嘉靖年間(1522-1566)に大修復され、清代および解放後の1961年にも修復された。。 
境内の主要な建物は、天王殿・大仏殿・大雄殿・観音閣およびと言った伝統的な四合院形式による建物が南を向いて並んでいる。また中国で最初の釈迦舎利塔もある。
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by chinafish | 2005-06-03 17:16 | 中国建築

漢の長安城遺趾

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場所:西安市漢城郷
時代:BC二〇六年~AD二五年
種別:宮城

秦滅亡後の戦乱を制して漢を建てた劉邦は、破壊された咸陽の郊外に新たに首都を建設し、長安と名付けた。
この漢長安城遺跡は、現在の西安市内から西北に約5キロの渭河南岸、漢城郷一帯にある。
漢の建てた長安はいびつな形をしていたが、前漢、新、前趙、前秦、後秦、西魏、北周の時代に首都がおかれた。
 
 漢の劉邦(高祖。在位前206~前195)は、秦朝の興楽官を改修して長楽宮と改称し、ここに遷都した。
ついで、未央宮を造営し(前200)、その十年後に、はじめて長安城の城壁を築いた。
版築で築き、周囲23キロ、高さ8メートル、底部の幅16メートルであった。
各面に城門が三つずつ設けられ、城門ごとに三つの通路があり、城内に大通りが三本通じていた。
 武帝の時代に、北宮・明光宮・建章宮を造営するとともに、西部の上林苑を拡張し、昆明池を開削した。
 このように、漢の長安城の完成には90年余りが費やされた。
 最終的な漢の長安城の平面は正方形に近く、城壁の周囲の長さは二万五千七百メートルで、全部で十二の城門があり、それぞれの門内の道は四台の車が同時に並んで通れる広さであったことが判明した。また、城内は道路が縦横に整備され、給水、排水設備も完備されていたという。都城の中南部は宮殿域で、西北部は手工業作業地域であった。さらに、皇室の宗廟などの儀礼用建造物や最高学府である太学は、都城の南郊外に集中していた。こういった特徴は直接または間接的に、東アジアのいくつかの古代国家の都城のスタイルの形成に影響を及ぼした
東と西の城壁と未央宮・長楽宮・建章宮・太液池・承露殿などの遺構が現存している。

──長楽官遺趾
 漢長安城内にある。秦代の興楽宮の基礎の上に、漢の高祖の5年(前202)に改修と拡張を行い、長楽宮と改称。周囲90キロ、面積は5平方キロあり、漢長安城の六分の一の面積を占める。そのなかに、前殿・臨華殿・長信殿など十四の宮殿が造られている。あまりの壮大さに劉邦自身も驚いたが、蕭何は「天下を治めるには壮麗な宮殿で威を示すべきです」と答えたという。
 劉邦が生涯を閉じたのはこの宮殿においてであった。現存するのは遺構のみ。

──未央宮遺趾
 漢長安城の西南部の西安門内にある。
漢代の政治の中心で、西宮とも呼ばれ、その周囲は9キロ、面積は5平方キロで、長安城の七分の一の面積を占めている。
高祖(在位前206~前195)のときに造営し、承明殿・清涼殿・宣室殿など四十余りの宮殿台閣からなる。
現在、地表に残っているのは未央宮の前殿の遺構と、石渠閣・天禄閣などと伝えられる高台の遺構である。

 建章宮は宮殿の集まりで、周囲は約10キロ、「千門万戸」とも呼ばれていた。
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by chinafish | 2005-06-03 17:15 | 中国建築

興安霊渠(灵渠)

b0102720_1782420.jpg場所:広西チワン族自治区興安県
時代:BC 221年築造開始 BC 214年完成
種別:運河

霊渠は、秦の時代に軍事物資を運搬するための運河として建設された。

紀元前217年、秦の始皇帝は広東・広西地方を統一した後、約40キロの水路を開削し、長江(揚子江)の支流湘江と灕江(広東省を流れて海に至る)の二つ流れを繋いだ。
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36の水門で水位を調節する技術水準は非常に高く、秦の3大水路(他は都江堰と郑国渠)の一つである。
霊渠の完成により、北は北京から南の広東とその海岸(現在の香港)まで、連続的な内陸航行が可能になった。
すなわち、珠江と揚子江を結び、水運、水利を発展させ、嶺南を開発し、経済を繁栄させ、南北文化交流を促進する上ですぐれた貢献をした。
霊渠の分水の地に位置する興安鎮は、行き交う船がすべてここを経由したため富み栄え、両岸には、宿屋、茶屋、料理店が軒を連ね、「水街」と呼ばれた。

この霊渠を使って秦軍は大量の軍隊を送り込み、南越を制覇して中国全土統一を成し遂げた。
この巨大施設は2千年を経て、いまなお現存している。

始皇帝は土木工事を大変よく好んだ。
代表的な構造物に万里の長城、阿房宮、始皇帝陵、兵馬俑抗、さらにこの霊渠や都江堰などの水利施設である。
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by chinafish | 2005-06-03 17:08 | 中国建築