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灵隐寺(霊隠寺)

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場所:杭州市
時代:326年
種別:禅寺


霊隠寺は、東晋の時代、326年にインドの僧彗理により創建された。

“云林禅寺”とも呼ばれ、中国禅宗十大古刹の一つで、1600年以上の歴史をほこる。
杭州西湖の西側近く、飛来峰に向かって建立され、古来から名高い江南の名刹であった。

言い伝えでは、東晋の326年、この地を訪れた創始者の慧理が、杭州の美しい景色を見て驚き、「仙人の心霊があの山に隠れている」と言った。
そのため「霊隠」と呼ばれるようになった。

最盛期の10世紀頃、五代呉越国時代には霊穏寺全体で九つの高楼、18の仏閣、72殿堂、1300室を超える部屋があり、僧の数は3000人を数えたという。
その後は度重なる戦火に焼かれ、現存するものは後に再建されたもの。

境内の主な建物は天王殿と大雄宝殿、薬師殿などである。

天王殿には、弥勒菩薩像と四天王像、韋駄天像が安置されている。
韋駄天像は南宋時代に一本の楠木で造られた木製の像。

大雄宝殿は中国の単層重檐式建築では最高の33.6mの高さを誇る。
内部の金色の釈迦如来像は、24本の楠で彫刻され、中国にある座仏として最大クラスの19.6mの像である。
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by chinafish | 2005-06-30 13:40 | 中国建築

譚柘寺



場所:北京市b0102720_13291172.jpg
時代:316年
種別:仏寺

北京市内から約40km離れた門頭溝区に位置する。

北京でよく言われる言葉に
“先有潭柘,后有幽州(先に譚柘寺が有り、後に北京城有り)”
があるが、(北京に宮城が出来る前からあるという意味であろうか?)
今から1700年ほど前の晋代に立てられた北京周辺では最も古い寺院である。

寺の後ろに竜潭があり、山に柘榴の木があることから潭柘寺と名付けられた。

山中に建てられた寺院郡は、東・中・西の三路に分散している。

中路には、牌楼・山門・天王殿・大雄宝殿、毗卢阁等がある。
大雄宝殿は黄色い瓦屋根が二層になっており、両端には青緑色の瑠璃の鬼瓦が飾られる。
鬼瓦は高さ約3m、北京で最も大きいものである。

東側には、庭園式の建築郡である、方丈院、延清閣、流杯亭等がある。

西路には、観音閣等の荘厳な建築が並ぶ。
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by chinafish | 2005-06-26 13:28 | 中国建築

阿育王(アショカ王)寺

場所:浙江省寧波市
時代:282年?
種別:寺院
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阿育王寺は中国禅宗五山のひとつとして有名で282年に創建された。
禅宗の名刹として、中国仏教史にも中日文化交流史にも重要な役割を果たしている。

特に釈迦様の仏舎利が珍蔵されているので、国内外にその名を馳せている。
アショカ王は仏舎利を八万四千に分けたが、その内の19箇を中国に運び舎利塔を建設、そのひとつが阿育王寺の舎利宝塔といわれる。

阿育王寺は、建築、庭園、名勝旧跡でその名を知られている。
お寺の前には玉幾山があり、山の形はお寺に向かって飛んでくる鳳凰に見えるという。
殿、堂、楼、閣が600余有る。
お寺は南に向いているが、南から北へと次第に高くなリ、主な建築は天王殿、大雄宝殿、舎利殿である。
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by chinafish | 2005-06-10 14:46 | 中国建築

龙华寺(龍華寺)

場所:上海市
時代:242年?
種別:寺院



龍華寺は上海で最も大きく最も古い古刹であり、
敷地面積は2万平方米余り,建築面積は5219平方米。

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名前の由来は、弥勒菩薩がその下で悟りを開いたと言われる龍華樹。
弥勒が龍華をもつのはこのためだが、実在の樹木のどれに当たるかはっきりしないため、その形態は様々らしい。

創建の時期には3つの説がある。
1、 三国時代の紀元242年、呉の孫権が、夫に先立たれた母の悲しみを慰めるために建立した。
2、 唐の時代687年
3、 宋の時代。

現在の建物は清時代に再建されたものを、1978年、人民政府の手によって修復されたもの。
建築様式は、宋時代の宋伽藍七堂様式で、仏教禅宗寺廟の基本的外観を備えている。
寺内には、弥勒殿、天王殿、大雄寶殿、三経殿、方丈室、蔵経楼と一直線に整然と並んでおり、その両側には鐘楼と鼓楼がある。
この並び方は龍の姿を表し、大雄宝殿が頭部、鐘楼と鼓楼が耳、東西の門前町の中にある二つの井戸が龍の両目になっている。

龍華寺のシンポルであるのが龍華塔。宋代に再建されたもので、木とレンガでできており、高さ40m、7層8角の構造。
1000年余りの歴史を持ち、今も昔と変わらぬ美しさが保されている。ただし、幾度か火災に遭っているので、現在の塔はそれほど古いもないらしい。
塔の上からは上海市街や黄浦江が一望できるが、残念ながら登ることは禁止されている。
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by chinafish | 2005-06-07 18:02 | 中国建築

顕通寺(けんつうじ)

b0102720_17194940.jpg場所:山西省五台県
時代:後漢、75年
種別:寺院

中国史上第二の寺院と言われる显通寺は、中国仏教4大名山である五台山に位置する。
五台山は中国仏教の聖地。
地形は「釈迦の掌」と比喩される。五本の指は五つの嶺。
それに囲まれた手のひらに寺院が点在する。最高峰は,標高3,000mあり、頂上が平らな台状であるので,この名が生まれた。
唐代は五台山仏教の最盛期で,中国仏教の一大中心地となった。清涼国師澄観は,岑山で『華厳教経疏』をつくり,不空は金閣寺を造営して文殊信仰を広めた。そのため遠くインドや日本の僧が巡礼した。唐代には日本留学僧の円仁らが訪れた。
「顕通寺」は、五台山寺廟の中でも規模最大であり、4万3700平方mの敷地内には、大小400余の建物が南北軸に沿い南向きに建てられている。
漢明帝永平年(58~75年)に、洛陽の「白馬寺」に少し遅れて建造された。
北魏の時代に拡張され、唐及び明の時代にも拡張、修復されている。

主な殿堂として「観音殿」「大文殊殿」「大雄宝殿」「無量殿」「千钵文殊殿」「銅殿」「藏経楼」等が挙げられる。
「無量殿」はレンガ造、「銅殿」は銅で作られている。
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by chinafish | 2005-06-03 17:20 | 中国建築

白馬寺

b0102720_17171190.jpg場所:河南省洛陽市
時代:後漢、68年
種別:寺院

洛陽郊外15㌔の所にある白馬寺は、後漢の明帝時代の68年に創建された、文献で確認できる中国最古の仏教寺院である。
白馬寺と言う寺名の由来については諸説あるが、迦葉摩騰と竺法蘭の二人の僧が、白馬に乗り『四十二章経』という経典を携えて、都の洛陽を訪れたという説話に因んだとも言われる。
山門の両側には、2頭の白馬の石彫があり、境内の東西に、高僧(竺法蘭と攝摩騰)の2人の墓がある。
現在の白馬寺は明の嘉靖年間(1522-1566)に大修復され、清代および解放後の1961年にも修復された。。 
境内の主要な建物は、天王殿・大仏殿・大雄殿・観音閣およびと言った伝統的な四合院形式による建物が南を向いて並んでいる。また中国で最初の釈迦舎利塔もある。
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by chinafish | 2005-06-03 17:16 | 中国建築

漢の長安城遺趾

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場所:西安市漢城郷
時代:BC二〇六年~AD二五年
種別:宮城

秦滅亡後の戦乱を制して漢を建てた劉邦は、破壊された咸陽の郊外に新たに首都を建設し、長安と名付けた。
この漢長安城遺跡は、現在の西安市内から西北に約5キロの渭河南岸、漢城郷一帯にある。
漢の建てた長安はいびつな形をしていたが、前漢、新、前趙、前秦、後秦、西魏、北周の時代に首都がおかれた。
 
 漢の劉邦(高祖。在位前206~前195)は、秦朝の興楽官を改修して長楽宮と改称し、ここに遷都した。
ついで、未央宮を造営し(前200)、その十年後に、はじめて長安城の城壁を築いた。
版築で築き、周囲23キロ、高さ8メートル、底部の幅16メートルであった。
各面に城門が三つずつ設けられ、城門ごとに三つの通路があり、城内に大通りが三本通じていた。
 武帝の時代に、北宮・明光宮・建章宮を造営するとともに、西部の上林苑を拡張し、昆明池を開削した。
 このように、漢の長安城の完成には90年余りが費やされた。
 最終的な漢の長安城の平面は正方形に近く、城壁の周囲の長さは二万五千七百メートルで、全部で十二の城門があり、それぞれの門内の道は四台の車が同時に並んで通れる広さであったことが判明した。また、城内は道路が縦横に整備され、給水、排水設備も完備されていたという。都城の中南部は宮殿域で、西北部は手工業作業地域であった。さらに、皇室の宗廟などの儀礼用建造物や最高学府である太学は、都城の南郊外に集中していた。こういった特徴は直接または間接的に、東アジアのいくつかの古代国家の都城のスタイルの形成に影響を及ぼした
東と西の城壁と未央宮・長楽宮・建章宮・太液池・承露殿などの遺構が現存している。

──長楽官遺趾
 漢長安城内にある。秦代の興楽宮の基礎の上に、漢の高祖の5年(前202)に改修と拡張を行い、長楽宮と改称。周囲90キロ、面積は5平方キロあり、漢長安城の六分の一の面積を占める。そのなかに、前殿・臨華殿・長信殿など十四の宮殿が造られている。あまりの壮大さに劉邦自身も驚いたが、蕭何は「天下を治めるには壮麗な宮殿で威を示すべきです」と答えたという。
 劉邦が生涯を閉じたのはこの宮殿においてであった。現存するのは遺構のみ。

──未央宮遺趾
 漢長安城の西南部の西安門内にある。
漢代の政治の中心で、西宮とも呼ばれ、その周囲は9キロ、面積は5平方キロで、長安城の七分の一の面積を占めている。
高祖(在位前206~前195)のときに造営し、承明殿・清涼殿・宣室殿など四十余りの宮殿台閣からなる。
現在、地表に残っているのは未央宮の前殿の遺構と、石渠閣・天禄閣などと伝えられる高台の遺構である。

 建章宮は宮殿の集まりで、周囲は約10キロ、「千門万戸」とも呼ばれていた。
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by chinafish | 2005-06-03 17:15 | 中国建築

興安霊渠(灵渠)

b0102720_1782420.jpg場所:広西チワン族自治区興安県
時代:BC 221年築造開始 BC 214年完成
種別:運河

霊渠は、秦の時代に軍事物資を運搬するための運河として建設された。

紀元前217年、秦の始皇帝は広東・広西地方を統一した後、約40キロの水路を開削し、長江(揚子江)の支流湘江と灕江(広東省を流れて海に至る)の二つ流れを繋いだ。
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36の水門で水位を調節する技術水準は非常に高く、秦の3大水路(他は都江堰と郑国渠)の一つである。
霊渠の完成により、北は北京から南の広東とその海岸(現在の香港)まで、連続的な内陸航行が可能になった。
すなわち、珠江と揚子江を結び、水運、水利を発展させ、嶺南を開発し、経済を繁栄させ、南北文化交流を促進する上ですぐれた貢献をした。
霊渠の分水の地に位置する興安鎮は、行き交う船がすべてここを経由したため富み栄え、両岸には、宿屋、茶屋、料理店が軒を連ね、「水街」と呼ばれた。

この霊渠を使って秦軍は大量の軍隊を送り込み、南越を制覇して中国全土統一を成し遂げた。
この巨大施設は2千年を経て、いまなお現存している。

始皇帝は土木工事を大変よく好んだ。
代表的な構造物に万里の長城、阿房宮、始皇帝陵、兵馬俑抗、さらにこの霊渠や都江堰などの水利施設である。
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by chinafish | 2005-06-03 17:08 | 中国建築

万里の長城

b0102720_17245100.gif場所:中国の数省にわたる
時代:BC8世紀頃
種別:防護壁

万里の長城は、「月から見える唯一の建造物」と言われ世界文化遺産に登録されている。

実際は宇宙空間から肉眼では見えず、条件の良い時に撮影した写真で判別できる程度らしい。
防護壁として世界史上例を見ない規模であり、河北省山海関から、甘粛省まで、総延長は2400Kmに及ぶ。
(2700km、6350km等文献によって差異あり)

紀元前数世紀ころ、中国各地に分立していた国々が、北方の騎馬民族 や他国の侵入に対し造った防壁を、中国を統一した秦の始皇帝がつなぎ合わせたものである。
「万里の長城」の元となった「長城」(城壁)を最初に建造したのは、春秋・戦国時代(紀元前770年~221年)、現在の山東省にあった斉国と言われている。

以後、列国が次々と建造を始め、あくまでも列国が自国の防衛目的で勝手に構築していった物で、位置も規模もバラバラだったが、秦の始皇帝によって支那全土が統一されると、長城を連結補完し、東は遼寧省遼陽から西は甘粛省臨(りんとう)に至る最初の「万里の長城」が完成、漢代には西端が甘粛省玉門関迄延長された。

さらに14 世紀にモンゴルの元を北方へ追い払った明は、モンゴルの再侵入を恐れ、長城の拡張強化に務めた。
西は「嘉峪関」から東は「山海関」、更には遼寧省の北朝鮮国境まで延長され、二千年以上にもわたって造営されてきた現在の長城が完成した。

北京近郊の長城は二重に築かれている。北京近郊の長城は、石やレンガで作られた重厚なもので、敵監視台、狼煙台などが均等に分布しており、芸術性も高い。

長城の建設方法は、各々の時代の生産力・技術力・軍事的要求に応じて異なる。
また建設地の地形・自然条件を利用し、その場所の資源に応じた材料を用いている。
「その土地の事情に適した措置をとる」のが長城建設の原則となっている。

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by chinafish | 2005-06-03 17:05 | 中国建築

秦の始皇帝陵と兵馬俑坑

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場所:陜西省西安市
時代:BC3世紀頃
種別:陵墓

世界遺産に登録されている秦の始皇帝陵と兵馬俑坑は、陜西省西安市の東35kmの臨潼県にあり、中国史上初めての多民族封建国家における皇帝陵墓である。
秦の始皇帝は、強大な権力を誇示した土木工事を好み、首都咸陽の大拡張工事、美女を三千人集めたという阿房宮や万里の長城の建設などに国力を傾注した。
これらが財政に負担をかけたことが、秦の崩壊の理由のひとつであると推測される。
なかでも驪山(りざん)の麓に造営した巨大な陵墓のためには、エジプトクフ王のピラミッドより8年長い38年間と、8倍の労働者である80余万人を費やした。
建設が終わると、秘密保持のため大量に生き埋めの刑にしたといわれる。
始皇帝陵は、陸園と埋葬区の二つに分かれており、陸園は四角錘型で、内外壁二重構造の四隅に楼を配する。
埋葬区にあたるのが、「品」の形に三つに分かれた兵馬俑坑である。

兵馬俑坑

 兵馬俑坑は、秦の始皇帝陵の東に1.5kmのところにあり、1974年、農民が井戸を掘る時に偶然発見したものである。
「俑」とは、死者とともに埋葬された土偶のこと。秦の始皇帝が、死後の自分に仕える「軍隊」として、これらの兵士や馬車を作らせたのである。
俑坑は全部で3つあり、そのうち1号坑の面積は14,260m2もあり、その中に実物大の陶俑と陶馬約6,000体が埋められてあり、いままでに武士俑1,000余体、戦車8両、陶馬32匹が出土した。
兵馬俑は表情も一体一体で全て異なり、武器を手にしたものもいる。

兵馬俑坑は、現在発掘され公開されているところのみならず、その周辺にも大量の未発掘の部分があるが、発掘と同時に土偶の表面に塗られた色彩が消えることなどの理由から、発掘がなされていない。

始皇帝陵

兵馬俑そのものは墓ではない。始皇帝の墓「始皇帝陵」は、兵馬俑から1.5キロメートルほど離れたところにあるが、まだ発掘調査がされていない。
中国の研究体制が整っていなかったということもあるようだが、司馬遷の「史記」に書いてあることが本当ならば、この墓、うかつに掘り返せないすごい墓なのである。
始皇帝陵の土台の部分は四角形に近い形をし、斗をかぶせた格好で、土をつき固めて築造した。陵の高さは76mもあったが、いまはその跡しか残っていない。陵墓の地下宮殿の真中は秦の始皇帝の柩を納めるところである。陵墓の周りには副葬墓などの墓が400以上あり、その面積は55.25km2もある。
司馬遷の史記によれば、秦始皇帝の地下宮殿は、

・地下に銅板を敷いて、宮殿や楼閣を築いた
・自動発射の弓を置いて、忍び込もうとする者を射殺した
・水銀を流して河や海をかたどった。
・天井には、宝石で描かれた星がまたたいていた。

長い間これは伝説とされてきたが、2003年11月、最新の科学技術を駆使した調査により、実際始皇帝陵の中に宮殿のような空間があること、水銀の反応があることなどが確認された。
史記によると、始皇帝陵は項羽によって盗掘がなされ埋まっていた財宝を30万人の兵士が30日掛かって奪い、その後火を放ち90日間燃え続けていたと記されている。
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by chinafish | 2005-06-03 17:00 | 中国建築