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漢の長安城遺趾

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場所:西安市漢城郷
時代:BC二〇六年~AD二五年
種別:宮城

秦滅亡後の戦乱を制して漢を建てた劉邦は、破壊された咸陽の郊外に新たに首都を建設し、長安と名付けた。
この漢長安城遺跡は、現在の西安市内から西北に約5キロの渭河南岸、漢城郷一帯にある。
漢の建てた長安はいびつな形をしていたが、前漢、新、前趙、前秦、後秦、西魏、北周の時代に首都がおかれた。
 
 漢の劉邦(高祖。在位前206~前195)は、秦朝の興楽官を改修して長楽宮と改称し、ここに遷都した。
ついで、未央宮を造営し(前200)、その十年後に、はじめて長安城の城壁を築いた。
版築で築き、周囲23キロ、高さ8メートル、底部の幅16メートルであった。
各面に城門が三つずつ設けられ、城門ごとに三つの通路があり、城内に大通りが三本通じていた。
 武帝の時代に、北宮・明光宮・建章宮を造営するとともに、西部の上林苑を拡張し、昆明池を開削した。
 このように、漢の長安城の完成には90年余りが費やされた。
 最終的な漢の長安城の平面は正方形に近く、城壁の周囲の長さは二万五千七百メートルで、全部で十二の城門があり、それぞれの門内の道は四台の車が同時に並んで通れる広さであったことが判明した。また、城内は道路が縦横に整備され、給水、排水設備も完備されていたという。都城の中南部は宮殿域で、西北部は手工業作業地域であった。さらに、皇室の宗廟などの儀礼用建造物や最高学府である太学は、都城の南郊外に集中していた。こういった特徴は直接または間接的に、東アジアのいくつかの古代国家の都城のスタイルの形成に影響を及ぼした
東と西の城壁と未央宮・長楽宮・建章宮・太液池・承露殿などの遺構が現存している。

──長楽官遺趾
 漢長安城内にある。秦代の興楽宮の基礎の上に、漢の高祖の5年(前202)に改修と拡張を行い、長楽宮と改称。周囲90キロ、面積は5平方キロあり、漢長安城の六分の一の面積を占める。そのなかに、前殿・臨華殿・長信殿など十四の宮殿が造られている。あまりの壮大さに劉邦自身も驚いたが、蕭何は「天下を治めるには壮麗な宮殿で威を示すべきです」と答えたという。
 劉邦が生涯を閉じたのはこの宮殿においてであった。現存するのは遺構のみ。

──未央宮遺趾
 漢長安城の西南部の西安門内にある。
漢代の政治の中心で、西宮とも呼ばれ、その周囲は9キロ、面積は5平方キロで、長安城の七分の一の面積を占めている。
高祖(在位前206~前195)のときに造営し、承明殿・清涼殿・宣室殿など四十余りの宮殿台閣からなる。
現在、地表に残っているのは未央宮の前殿の遺構と、石渠閣・天禄閣などと伝えられる高台の遺構である。

 建章宮は宮殿の集まりで、周囲は約10キロ、「千門万戸」とも呼ばれていた。
by chinafish | 2005-06-03 17:15 | 中国建築
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